皇徳寺物語

南側から見た皇徳寺の廃寺跡地で、現在は休耕田になっています。

『皇徳寺物語』
 時は平安時代の末期、源氏と平氏の争いも終局を迎えようとしている頃のことでした。
兄頼朝の怒りにふれた義経は、奥州の藤原氏を頼って平泉に下向したのですが、義経に味方して京都の公家の政権を回復しようとした人に、京極高持という人がありました。
 しかし、そのはかりごとは失敗してしまい、身の置き所のなくなった高持は、旅僧となって身をかくしながら、黄海村にたどりつきました。黄海村にたどりついた高持は、「衣井山皇徳寺」を開山してその住職となりました。しかし、義経が滅んでしまってからは、鎌倉の詮議がきびしくなりました。高持とよしみのあった佐々木高綱は、「京極を名乗っていては身辺があぶないので、佐々木と姓を改めた方がよい。」と、高持の身を案じて勧めました。高持はその言葉にしたがって佐々木と改姓して、皇徳寺の住職は代々佐々木氏となったのでした。
 さて、時は移り変わって、鎌倉末期の後醍醐天皇の御代のこと、院政をめぐって執権北条高時と安藤儀政が争いをおこしましたが、安藤氏は高時の軍に攻められて大敗しました。儀政は皇子の一人を連れて奥羽にのがれ、北上川をさかのぼってきました。途中、一人の旅僧の案内で、木戸口、木戸沢を通って黄海の楓樹城にたどりつきました。そして、皇子は殿城及び下宮に住まわせ、儀政は安藤城を築いて、北条高時征伐の計略をめぐらしました。翌年元亨2年10月のこと、北条氏は儀政の居所をかぎつけて、狼川原の木戸脇尚武が沢まで兵を進めて来ました。皇子をはじめ儀政ら一同は、物見館に集まり皇子は、「君の為、世の為何か惜しからん、捨てて甲斐ある命なりせば」、儀政は、「都人、今を盛りと思うらん、秋風ぞ吹く今日の悲しさ」という辞世の歌を詠んで自害しました。
 元亨2年10月25日、北条軍は黄海に攻めこんできて、皇子や儀政の居所をさがしあてましたが、もはや自害したあとだったので、辞世の歌といっしょに、2人の首を塩漬けにして持ち帰ったということです。
 それから24年後、再び事件がもちあがりました。正平元年のこと、後村上天皇の皇子が、従臣10人を率いて北上川を渡り、男沢を経て皇徳寺に来ました。この時、北峯鷹鳥城主の及川藤八郎重俊は、臣下を連れて皇子を迎えました。
 皇子を迎えた皇徳寺は、平穏な日々を過ごしておりましたが、それもつかの間、翌年には、葛西武治の家臣の薄衣四郎清村という者が、孫の泰常に命じて皇子を殺害してしまい、皇子の従臣10人も殉死してしまいました。
 及川重俊はこの一大事を皇徳寺に知らせました。知らせを受けた皇徳寺の法印は、あまりの出来事におどろき、急いで皇子のもとにかけつけましたが、すでに皇子は息絶えていました。
 法師は皇子の死を大変悲しみ、数日後に、〝皇壇″を築いて皇子の霊をなぐさめ、高さ4尺(1メートル20センチ)ほどの自然石で墓石を建立しました。時に正平2年6月31日のことでありました。
 その後、村人達は、皇子の居た場所を宮沢皇子屋敷と名づけ、皇子権現社を建てて霊を慰めたということです。
(黄海村史・藤沢町史 本編下による)
※ 皇徳寺跡は、藤沢町の遺跡に指定されて標柱が建てられています。いつの頃に廃寺になったのかこの言い伝えではわかりませんが、皇徳寺の檀徒であった人達は、皇徳寺が廃寺になったあとは他の寺につくことをしないで「神道」についたといわれ、今でもそのことをとおしています。

所在地 一関市藤沢町黄海字小日形地内
連絡先 藤沢支所地域振興課
電話 0191-63-2111
FAX 0191-63-5133
交通アクセス(JR) 東北本線花泉駅下車、岩手県交通藤沢花泉線七日町バス停下車、徒歩45分
交通アクセス(車) 東北自動車道若柳金成インターから40分・同一関インターから45分
駐車場 なし
時間 なし
料金 なし