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続石に、大原大明神が祭られていたことに因む。 大原町誌「続石大明神」に、昔は流れ川で、川中不動といって、斉明天皇五年(669)阿部比羅夫が再建し、その後、嘉祥年中(848~50)僧円仁が、山州大原大明神、本地薬師仏を歓請した。これによって、往古は小萩の荘と言っていたが、これから大原村となった。続石大明神と称するようになった。 続石大明神は、源頼義、義家も詣でて、宝剣を奉納した。平泉藤原三代の頃は、仰せによって鬼門鎮守として、祭田五丁を寄附し、社地は永代不入の地と定められていた。泰衡の時、宮殿を焼失し、葛西晴時が再建、天正年中また焼失し、今は建替なり。と記している。(文化財調査報告書第24集「大東町の地名」から)
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続石に、大原大明神が祭られていたことに因む。
大原町誌「続石大明神」に、昔は流れ川で、川中不動といって、斉明天皇五年(669)阿部比羅夫が再建し、その後、嘉祥年中(848~50)僧円仁が、山州大原大明神、本地薬師仏を歓請した。これによって、往古は小萩の荘と言っていたが、これから大原村となった。続石大明神と称するようになった。
続石大明神は、源頼義、義家も詣でて、宝剣を奉納した。平泉藤原三代の頃は、仰せによって鬼門鎮守として、祭田五丁を寄附し、社地は永代不入の地と定められていた。泰衡の時、宮殿を焼失し、葛西晴時が再建、天正年中また焼失し、今は建替なり。と記している。(文化財調査報告書第24集「大東町の地名」から)