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平泉藤原氏の時代に因んだ仏像 室根支所の南100m程のところに、木立に囲まれた一角に方形造りの屋根を持つ南流神社が所在していますが、社伝によれば、奈良時代の和銅3年(710)に室根山に棲む魔縁を退治した賀茂王次四郎実盛の建立ともいわれます。明和7年(1770)に「奉再建東山下折壁村観世音御堂一宇」という入仏願文が伝えられ、現在も堂内に浄財を献じた講中三百余人の名前が揚げられており、安永4年(1775年)の風土記書出には「村鎮守観音堂、南向三間四面」と記されたこの社は、数百年来観音像を安置した仏堂でしたが、明治政府の神仏分離令(廃仏毀釈)によって、速(はや)玉男(たまおの)命(かみ)を祭神とする神社とされました。 この堂内には、古来秘仏として厳に開帳を禁じて密かに継承され、戦後先代の禰宜の英断により開帳された聖観音像は、像高100.3㎝、カヤ材の寄木造りで、漆箔仕上げの像です。頭体幹部は一材で、背面を内ぐりし背板をあて、両肩先、両手先、両足先を矧ぎ寄せています。左肘先は失われていますが、残存部分は原型のままとなっています。やや面長の本像は全体的に穏やかな作風を示し、華やかな天冠台の形式などから平安末期(12世紀)頃の作とされており、室根山中腹の室根神社とともに室根の信仰の歴史を物語っています。昭和33年5月16日県指定
平泉藤原氏の時代に因んだ仏像
室根支所の南100m程のところに、木立に囲まれた一角に方形造りの屋根を持つ南流神社が所在していますが、社伝によれば、奈良時代の和銅3年(710)に室根山に棲む魔縁を退治した賀茂王次四郎実盛の建立ともいわれます。明和7年(1770)に「奉再建東山下折壁村観世音御堂一宇」という入仏願文が伝えられ、現在も堂内に浄財を献じた講中三百余人の名前が揚げられており、安永4年(1775年)の風土記書出には「村鎮守観音堂、南向三間四面」と記されたこの社は、数百年来観音像を安置した仏堂でしたが、明治政府の神仏分離令(廃仏毀釈)によって、速(はや)玉男(たまおの)命(かみ)を祭神とする神社とされました。
この堂内には、古来秘仏として厳に開帳を禁じて密かに継承され、戦後先代の禰宜の英断により開帳された聖観音像は、像高100.3㎝、カヤ材の寄木造りで、漆箔仕上げの像です。頭体幹部は一材で、背面を内ぐりし背板をあて、両肩先、両手先、両足先を矧ぎ寄せています。左肘先は失われていますが、残存部分は原型のままとなっています。やや面長の本像は全体的に穏やかな作風を示し、華やかな天冠台の形式などから平安末期(12世紀)頃の作とされており、室根山中腹の室根神社とともに室根の信仰の歴史を物語っています。昭和33年5月16日県指定